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恐らく、川崎 燎は彼の最近のアルバム(スウィート・ライフ/サテライツ・レーコーズ)でも実証されているようにジャズギタリストの第一人者として最もよく知られているかもしれないが更に巧みに音楽と科学を混ぜて操る事の出来る精粋の ”超現代的”アーチストとしての評判も高く、彼は単なるミュージシャンであるばかりでなくエンジニアそして発明家としての能力も備えあわせている事を忘れてはならない。
彼の多岐なキャリアは電子エンジニア、物理学を専攻、トップのスタジオセッションギタリスト、アマチュア天文学者、セミ・プロレベルのプール・プレーヤー、主流のジャズギタリスト、音楽ソフトウェアの作者・プログラマー、リズムトラック専門家、エンジニア、編曲者、レコード会社のオーナー、そして数多くのジャンルの音楽スタイルを制作するプロデユーサーでもある(ジャズ、アシツド・ジャズ、ヒツプ・ホツプ、ダンス、ブラジル音楽、アコーステイツク音楽等)。
日本の東京に生まれ、1973年にアメリカのニューヨーク市に住み着いた。その後殆ど間もなくアメリカのジャズ・シーンに発掘されそのジャズの本場でギル・エヴァンス、トランペツターのテツド・カーソン、ドラマーのエルヴィン・ジョーンズ、チコ・ハミルトン、ピアノのジョアン・ブラツキーン、フルートのボビー・ハンフリー、歌手のジョー・リー・ウイルソン、サツクスのデイヴ・リーブマン、プロデユーサーのテオ・マセロ、その他数々の有名なアメリカのジャズの巨匠達のサイド・メンとしてレコーデイングやツアーに参加して活躍した。川崎 燎のデイスコ・グラフィーはすでに30作のソロ・アルバムの他に後30作程の作品にプロデユーサー或いはフィーチャード・アーチストとして参加している。 |
2002年にはアコーステイツク・ソロ・ギター アルバムの代三作目に たる"E"を好評発売に至りその後はエストニアの首都タリンに拠点を移しカナダのモントリーオール・ジャズ祭を皮切りにフィンランドのポーリ・ジャズ祭、バルチ三国のエストニア、ラトヴィア、リスエニア、そしてロシア、スウェーデンでの各ジャズ祭等に精力的に出演している。
又、エストニアのヌンメ・ジャズ祭の製作幹部としてもバルチ国では初の日本人のみのベーシスト鈴木良雄氏の率いるジャズ・グループ”ベース・トーク”を2005年には日本から数週間に渡る北欧ツアーに招待すると言う偉業も成し遂げている。2007年三月にはこのベーシスト鈴木良雄氏との新作デユオ・アルバム”アガナ”の発売記念公演を日本で三週間に渡り行う予定で る。又、2005年以降は同じくタリン在住のアメリカ人ドラマー・ブライアン・メルヴィンとギター・トリオ"Art Of Trio"を結成して新たなギター・トリオサウンドを追求する活動もしている。
ごく最近(2000年6月)に彼は北欧の未知国エストニアのタリンで久々のスタジオ・ライヴのギター・トリオの作品レヴァルを録音した。リズム・セクションにはエストニアのトツプ・ミュージシャンのトイヴォ・ウントのベースとアイヴァー・ヴァツシリヤフがドラムを勤め、情緒豊かなクリステー・キールのイングリツシ・ホーンが何曲かにゲストとして参加している。この作品は恐らく数多いRyoの作品の中で最もシンプルなアコーステイツクなサウンドに仕上がつている。発売は2000年の10月の予定。
1999年に発売された彼の最も最近の作品「コズミツク・リズム」では Ryo の現在のリズムセクション、ドラムのビクター・ジョーンズ、べースのリンカーン・ゴーインズ とともに英国の歌手・作詞家クレア・フォスターがフィチャーされている。 アルバムには更にピアノのデイビッド・ キコスキー 、そして フルーゲル・ホーンには大野俊三もフィーチャーされている。 すべての曲は 川崎によって編曲、レコデイングされ川崎のオリジナル作品10曲も収められている。
更に1999年には、「コズミツク・リズム」を発売している時期に二人のヒツプ・ホツプ スーパー・スター、パフ・ダデイー とキース・マレーが同じ年にRyoの23年も前に録音されたオリジナル曲”バンブー・チャイルド”を取り上げて録音・発売した。この様に彼の古い曲でも現代のヒツプ・ホツプのビートやムードに完全にピツタリと合うと言う所もいかにRyoの音楽が常に時代を超越しているかという実証の一つとも言える。
Ryoは主に二種類のギターを使い分けて使用している.。。ヤマハから贈呈されたセミ・アコーステイツクのエレクトリツク・ギター(ギブソンのES335に類似している)に彼の幾つかのアルバム・カヴァーでも見れる様に真珠の龍のインレイが施されたギターとスペインで作られたナイロン・ストリングのフラメンコ・ギターである。彼のエレクトリツク・ギターの奏法は、ウェス・モンゴメリー、ケニー・バレル、ジョージ・ベンソンからカルロス・サンタナ、BB・キングやジェフ・ベツクの影響を受けている。アコーステイツク・ギターの奏法への影響は、アンドレ・セゴヴィア、ジャンゴ・ラインハルト、ジョン・ウイリアムスそしてパコ・デルシアである。
川崎の一生は生まれつきのせんさく好きと発明能力のおかげで共に音楽と科学の分野で特徴づけられて来ている。彼は4歳の時に声楽レッスンと5歳の時にバイオリンレッスンを受けていて小学校に入る前に音楽の譜面が読める様になつていた。
小学生として、彼は天文学とエレクトロニクス(彼はアンプとスピーカーを含めて彼自身の手でラジオ、テレビとか音声のシステムを作ったりしていた)が彼の生涯の魅惑となつた。 Ryoは10歳のときにウクレレを買った、そして、14歳で、彼は彼の最初のアコースティックギターを持つ事が出来た。ケニー・バレルとスタンリー・タレンテイーンによるアルバム”ミツド・ナイト・ブルー”に触発されてRyoはジャズ・ギターを勉強するようになつた。
高校で彼はその当時盛んになつたライヴ演奏のある喫茶店等を訪れはじめ自身のジャズ・バンドを結成したり、初期のシンセサイザーの役を果たした電子オルガンを作ったりしていた。16歳の時には既に、彼のバンドはキャバレーとストリップ小屋で専門的に演奏し始めていた。
彼はその後も定期的に音楽を演奏し続けたけれども、日本大学では物理学を専攻し理学士号を得ていた。 彼は同じくヤマハ楽器製造業者のジャズ学校で音楽コンテストの審査官も勤めそこのジャズ学校でジャズを教えたりもしていた。
さらに彼はサウンド・エンジニアとして日本のビクター・レコーズのスタジオとラジオ局TBSにあつたBGM会社で働きながら、ミクシングやテープ編集技術を学んだ。
彼は最初のソロ・アルバムを22歳の時に日本のポリドール・レコーズから発売した。同時に彼のジャズ・グループは意欲的に活動を続けてその当時の若さで日本のスイング・ジャーナル紙のジャズ人気投票のギター部門で弟3位に選ばれたりしていた。その後の3年間はスタジオ・ミュージシャンとしても年中無休で忙しく働き広告用のジングルから歌謡曲の伴奏に至るまでのあらゆる音楽をこなしていた。「とても良いお金にはなつたけれどもやはり最後にはやりきれなくなつてしまつた。。」とあとで彼は語つている。二作目のソロ・アルバムは24歳の時に東芝レコーズに録音した。又、BBキングともブルース・フェステイヴァルで共演したり、ジョージ・ベンソンとも親交を高めRyoの自宅で二人だけで5時間にも渡つてジャム・セツションをした事もあつた。
1973年に川崎はニューヨークの土を踏んだ。友人が飛行場に迎えに来てくれて即座にリンカーン・センターでニューポート・ジャズ・フェステイヴァルの一部として出演する歌手のジョー・リー・ウィルソンとの仕事をした。その後も当時盛んになりだしたロフト・ジャズに忙しく参加しはじめて毎日のようにジャム・セツションをやつていた。その頃、ボビー・ハンフリーのバンドのメンバーとして迎え入れられたりもしていた。数ヶ月後にRyoが買い物からアパートに戻つて来たらば、見知らぬ人が彼のアパートの前で待つていた。何とその人はかのアレンジの巨匠ギル・エヴァンスであつた、そして彼はRyoに当時の彼のオーケストラ(デイヴ・サンボーン、ハワード・ジョンソン、トム・マローンなどがメンバーとして在籍していた)への参加を希望した。そしてこのグループはジミ・ヘンドリツクスの曲の数々をギルのアレンジで録音をする準備をしている最中でもあつた。ジミはこのギルとの企画を夢見ていたのになんと企画がスタートする一週間前に死んでしまつた。川崎はこのジミが弾く筈であつたパートの代理ギターリストとして求められた訳であつた。その後、もう一枚のギルのアルバム”時の歩廊”にドラムスのトニー・ウィリアムスと共に参加した。そして、Ryoはトニーのグループ ”ライフタイム”の三代目ギターリストとして当時サンタナのベーシストであつたダグ・ローチと共に数ヶ月に及ぶリハーサルを開始した。しかし突如トニーがヨーロツパに一年以上も移住してしまいこのバンドは人前で演奏する機会を得る事ができなかつた。
その後川崎はジム・ホール、ガボール・ザボ、ラリー・コイエル等の後釜としてチコ・ハミルトンのバンドのギターリストに向かえ入れられてアメリカ全土に渡るツアーそしてハリウツドではチコの手がけた映画音楽の録音等にも参加した。1976年には日本人としては初めてのアメリカのメージャーレコード会社RCAと契約してアメリカでのデビュー・アルバム”ジュース”を発表した。このアルバムには当時のサンタナのグループのキーボード奏者トム・コスタとマイルス・デイヴィスのバンドに在住していたサツクス/フルート奏者のサム・モリソンが参加している。同時期に川崎は意欲的にも更に二枚のアルバム”プリズム”と”エイト・マイル・ロード”を日本のイースト・ウィンド レーベルにも録音している。 そしてドラムの巨匠エルヴィン・ジョーンズのバンドに向かえ入れられて丸一年におよぶアメリカ本土、サウス・アメリカとヨーロツパのツアーを経験した。1978年には川崎はさすがに他のバンドのメンバーとしてのツアーの連続に疲れたので自身の創作に専念する事を始めた。
彼はインド音楽を探求してラーガを学び”リング・トス”をアメリカのオーデイオ・フィデイリテイ レーベルに録音した、これは東洋と西洋の音楽を混ぜ合わせた作品である。サツクスのデイヴ・リーブマンを向かえてドイツのMPSレーベルには”Nature’s Revenge”を収録して同時にこのグループでヨーロツパをツアーした。同時にピアニストのジョアン・ブラツキーンともデュオで数々のヨーロツパのジャズ・フェステイヴァルで演奏してオランダのタイム・レス レーベルに数作品を残している。日本ではソニー・レコーズの新しいジャズ・レーベル、オープン・スカイと契約して以下の3作を録音した。。”Mirror Of My Mind”、”Little Tree”そして”Live”である。最後の作品は1980年に東京のジャズ・クラブ、ピツト・インで収録され世界発のデジタル録音の一つである。「ライヴ演奏は続けているが今年(2000年)に新たに録音した”Reval”迄の間の20年間ではこの作品が私のライヴ・リズムとの録音では最後の物となりその間に発表した作品は全て打ち込みで作られる様になつた..」と彼は語つている。
1979年には川崎独自のギター・シンセサイザーを完成させて1980ー1983年には数々のアメリカのプラネタリウムでのソロ・コンサートを公演し続けていた。同時にジャズ・ロツクのグループ”ゴールデン・ドラゴン”を結成して80年代初頭には意欲的にコンサート活動もしていた。日本のFostexという会社が史上初の1/4インチ幅テープを使用しての8トラツクのテープ・レコーダーを開発して川崎に最初の使用者になつて欲しいと依頼された。彼はその機会を応用して日本のフィリツプス・レーベルを通して”Ryo”と言う作品を1981年に発表した。この作品はクラシツクの名曲アランフェス協奏曲をはじめとして、アルバム全て綿密に川崎自身がギター・シンセサイザーですべてのオーケストラのパートを再現した上に彼自身がナイロン・ストリング・ギターのパートを演奏したものであり業界及び大衆からも大きな反響と支持を得た画期的な作品となつた。翌年にも似た様な手法で作られた作品”ラツキー・レイデイ”を日本のテイチクから発売している。
その直後、コモドア64と言うコンピューターがサウンド・チツプを搭載して市場に現れると川崎はその可能性に魅せられてしまいプログラミングを自ら習得して2年間に1日16時間近くを費やして4作ものミュージツク・ソフトを書き上げてしまつた。それらは、-- Kawasaki Synthesizer, Kawasaki Rhythm Rocker, Kawasaki Magical Musicquill and Kawasaki MIDI Work-station -- でありアメリカではサイト・アンド・サウンド社から発売されて大成功を収め、日本でも富士通のコンピューター用に書き換えられて発売された。最初の三作は子供と家庭用の音楽教育に向けられ、最後の作品はスタジオ用に書かれたものであつた。1987年には”イメージス”と言う全てシンセサイザーで作られたアルバムを日本のメルダツク・レーベルから発売している、そして1990年にはアマゾンの森林を守る為のIMAX映画”空の筏”のサウンド・トラツクを担当して”プレジャー・ガーデン”を残している。
又、同時期1986ー1990年には、数々の12インチのダンス用シングルを制作し始めてのアメリカのダンス・チャートを飾る事になつた。それらは、 -- "Electric World," "One Kiss," "No Expectations," "Say Baby I Love You," "Don't Tell Me," "Wildest Dreams," "Life is The Rhythm" そして "Acid Heat" --等であり、フリー・スタイル、ハウス、アシツド・ハウス、アンビエント等の要素を巧みに入り交えて全て彼のホーム・スタジオ”サテライト・ステーション”で制作/録音され彼自身のレーベル、”サテライツ・レコーズ”から発売された。彼のグループとダンス・チームは当時のニューヨークのダンス・クラブに出演して活躍していた。更に同時期に5年間に渡り(1988ー1993年)彼は日本のラジオの音楽プログラム , "The Music Now" と "Idex Music Jam."のニューヨークでのプロデユーサーも担当していた。
1991年には再び川崎の音楽デイレクションに極端な転回が生じた。それは日本のジャズ・アダルトコンテンポラリーとして新しく設立されたワン・ボイス・レーベルのアーチスト及びプロデユーサーとして契約した事により再びジャズ・アーチストとしての活動をし始める事になつた。ここでの第一作目は1992年に発売されたソロ・アコーステイツク・ギターの作品"ヒア、ゼア アンド エヴェリウエア"である。(日本ではワン・ボイスからアメリカではサテライツ・レコーズから発売) 又、川崎はこのレーベルのブラジリアン・シンガー/ギターリスト カミーラ・ベンソン の三作のアルバムのプロデユーサー及びギターリストとして参加した。その後も川崎は絶え間なくアルバムを発表し続けている。もう一枚のソロ・アコーステイツク・ギターの作品”マイ・レヴェリー”(ビル・エヴァンス、ドビツシー、ラヴェル、ガーシュウィンの作品を手がけたもの、アメリカのスムーズ・ジャズのラジオで大ヒツトした Love Within The Universe/邦題:それじゃ、マイ・ラヴ”、カミーラをフィーチャーした ”Remixes Remixes Vol.1”そして以前のハーヴィー・メイソン、マイケル・ブレツカー、アンソニー・ジャクソン、レオン・ペンダーヴィス、ヴォーカルのラーダ・ショツタムをフィーチャーした名作”ミラー・オヴ・マイ・マインド”やゴールデン・ドラゴン時代の”リトル・トウリー”、”ライヴ”等CD化発売、日本の盲目の琴の名手高野基長との共演作”クリスタリゼーション”及び冒頭の””スイート・ライフ”、”コズミツク・リズム”、日本のヴィレツジ・レコーズの99年度作品”スーパー・ギターリスツ”への参加そして今年の ”レヴァル”に至る迄アメリカ、日本の両方に渡つてアーチストとレコード・レーベルとしての両方の分野で精力的な活動をし続けている。
Ryoの音楽の魅力は彼のギター・プレイにとどまるばかりでなく彼の天来のリズムの創造性が彼のすべての作品を通して光つている。これらのリズムはストレートなジャズからポツプ・ロツク、ラテン、ヒツプ・ホツプ、アーバン・サウンドに至るまで様々な要素をカヴァーしている。 「私が子供の頃、両親はキューバのダンス音楽をしょつちゅう聞いていたのでまずそのリズムに魅せられていた。60年代にはロツク・ミュージツクが盛んになりそのパワーのあるシンプルなビートも聞いていた。その後、チコ・ハミルトン、エルヴィン・ジョーンズ 、トニー・ウィリアムスのような偉大なドラマー達と共演し続けて彼らを通してリズムに関する多くの事柄を学んだ。エルヴィンは彼のドラムを通して人生のストーリーを語り、ドラムでバンドの指揮者の役割も勤めていた。これらの全ての影響が私が過去20年近くに渡つて行つてきたダンスやジャズのリズムのプログラミングに役立つてきた」。。。川崎談
多くの川崎のレコーデイングは綿密に構成されたリズムと多種多様のメロデイツクなサウンド、時たま聞かれるヴォイセスそして感情豊かな表情を持つた彼自身のギター・インプロヴィゼーション等が巧みに入る混じつて形成されている。 「真実は私の創る物は全てインプロヴィゼーションの賜物に過ぎない。たとえそれがギターのような楽器を通して創造されようがコンピューターの様な新しい形の器材を通して創られようが私にとつてはそこには何の違いもない。私達が音楽を創る時はまずそこにある程度の知識が必要である、そして自分の中に貯えられている様々なその知識に瞬時アクセス出来てそれを表現しきれる技術が伴わなければならない。現在あらゆる形の技術革命がとてつもないスピードで発展している、ある人々はそれと一諸になつて進歩していくだろうし一部の人々は保守的に過去の物にこだわるのかもしれない。 でも私自身の観点では変化を常に受け入れて行く方が人生が常に明るく見通せる様に思われる。」。。。川崎談
文 :ランドール・デイヴィス
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